多様性について

近年、”性の差別化を無くすべき”、”もっと社会は多様性になるべき”というような言葉達が私たちの周りを取り巻いています。

今から私が投稿する内容は他人を不快にさせる言葉が出てくるかもしれません。私個人の考えとして伝えたいと思います。

私は、社会にいろいろなジェンダー・アイデンティティがあって良いと考えています。 しかしすべての人がそれを受け入れ無ければならないという社会環境・整備は果たして多様性なのか?むしろ強制的で行き過ぎているのではないか、個人の権利を脅かしているのではないかと、色々なニュース等を読んで強く疑問に感じています。

去年ある女の子が【アスリートに公平性】をと世界中に訴えかけました。また公正な競技に女性の権利を求めた連邦訴訟を起こしました。

彼女は生物学的な男性と競うようになるまでは、アメリカのある州の高校の部でトップ5に入る短距離走者でした。

彼女は今まで並々ならぬ努力と時間と青春を陸上競技にかけて来たに違いありません。そのまま行けば有名なコーチからオファーが来ることは間違いなく、そして陸上競技の部門で奨学金を得られたはずです。

しかし二人の生物学的な男性が競技に現れてから全ての努力が水の泡なりました。

果たして性自認が女性のトランスジェンダーで、生物学的には男性という人と、女性がスポーツで競うことは公平なのでしょうか?

ちなみにこの二人の選手は州選手権の男子の部では出場すらできなかった人たちです。また一部のマスメディアや人々は、訴えた彼女のことを「ただの負け惜しみ、差別だ」などと責めたそうです。

もしこのまま生物学的な男性が女性のスポーツ部門にどんどん進出して行けば、完全に女性が締め出されてしまうと彼女は訴えました。

一番胸に刺さった彼女の言葉が「アメリカよ、私たちに背を向けないで。これはジェンダー・アイデンティティの問題ではない、これはフェア・プレイの問題です。」

こういうことを訴えなければいけない社会をどう思いますか?

もしオリンピック競技で男女の差別が無くなれば、どの競技も男性が勝つことになるという事は誰でもわかることでしょう。このような試合を私たちは見たいでしょうか。

皆が公平に競い合えるように、男女の部門だけでなくトランスジェンダー部門を作るのが一番良いと思いますが、それを嫌う人たちと団体が大多数います。

「多様性」という言葉に世界中が、特に先進国が踊らされて敏感になり過ぎて、この言葉のせいで真の多様性が世界中からいずれ無くなっていくでしょう。

今一度一人ひとりが「多様性」と言う言葉の意味と、言葉の重さを十分に理解した上で、正しく使って欲しいと切に願います。

MK